ある日、目が覚めたら、世界の全てがやけに大きかった。 違う、自分の視点がいやに低い。 何よこれ、いったいどういう事? そう言おうと思ったら、口から出た言葉は「わん」だけだった。 慌てて鏡を見ると小さな犬が映っていた。 はぁ……これからどうしよう。 私は途方に暮れながら街中を歩くしかなかった。 あのまま部屋でじっとしていても埒は明かないし、かと言ってこの姿で遺跡に入るのも不安。 誰かに助けを求めようにも「わん」としか喋れないし。 もしかしたら一生このまま…… でも、私の血のことを考えるとその方がいいのかも…… 「どうしたの?迷子かな?」 そんな考えが浮かびかけた時に、フィーに声をかけられた。 「あれ?……この子……」 かわいいと言いながらしゃがんで嬉しそうに私の頭を撫でていたフィーの手が止まった。 魔術師らしく何かを感じたらしい。 そう、私、キレハなのよ。助けて! 「ごめんね、わたしにはあなたに何が起こったのかよくわからないの。でも、大変なことになったんだね」 ……って言っても、わんわん鳴いているようにしか聞こえないわよね…… 「どうしよう、今日は父さまはお兄ちゃん連れて往診に行っちゃったし、ラバンおじさまも探索だし……」 そうなのよね。ラバン様がいれば相談……って言っても「わん」としか言えないけど、できたんだけど。 「そうだ!」 道の端に退いて考えていたフィーが何かを思いついたようで私を抱き上げた。 まさか、まさか、ちょっと待って!それは嫌よそれは困るわ! 私の脳内に最悪の可能性が走る。 フィー、あなたが何故か不思議な事に理解できないけど憧れてるその人はあなたが思っているようないいものじゃないわ決して! むしろどっちかと言うと、どっちかと言わなくてもアレよ!問題が山ほどありすぎる存在よソレは! やめて実験動物は嫌ぁぁぁ! 「きゃっ!ちょっと、おとなしくして!抱っこが嫌なら降ろすから!お願いだから言う事聞いて、一緒に神殿まで来て!ね?」 神殿?……良かった。 良かったけど、神殿には神殿でもう一つ問題があったのよね。 「こんにちはー……あ、エメクさん。よかった」 良くないわよ!なんで、なんでこんな時に、よりによってエメクがいるのよ! アダさんとか、マナとか、テレージャとか誰かいないの?! 「こんにちは。どうしました?何か困った事でも?」 「うん、あのね、この子なんだけど……」 「これ、普通のイヌじゃないな?」 エンダがじっと見たり触ったり匂いを嗅いだり。ちょっとくすぐったいってば。 「エンダ。すみません、ちょっと見せてください」 エメクに抱き上げられた。助かったと言えば助かったけど顔が近すぎるのよ! 知らないんだからしょうがないんだけどちょっと私、心の準備ってものが! 「なんて言うか……変な力みたいなの、を感じるの。でも今日は父さまもお兄ちゃんもいなくて。 だから神殿で呪いを解いてもらえれば何とかなるかな、って思ったんだけど……」 「なるほど……」 エメクは抱きかかえた私を真剣な表情でじっと見ている。 「確かに、妙な力を感じますね。見たところは呪いの類ではなさそうですが……少しこの子をお預かりしてもいいですか?」 「はい!お願いします」 フィーはエメクに頭を下げた後よかったね、と言って私の頭を撫でる。 「そうだ、せっかくいらしたんですからお茶でもどうぞ。エンダも喜びますよ」 「そうだぞ、フィー。オチャしていってエンダと遊べ」 勧められるままにお茶を飲んで、お茶菓子を嬉しそうに食べている。 いつもは引っ込み思案なフィーがエメク相手だとあんなに楽しそうにお喋りしている。 ……ちょっと、なに考えてるのよ私。 胸の奥がざらざらして、慌てて振り払った。 当たり前じゃない、幼馴染なんだから。ネルとか他の幼馴染だって何も変わらない態度じゃない。 あんな子供にやきもち妬いてどうするのよ。 だいたい、フィーにははっきりと別に好きな人がいるし、 しかもそれはどう見てもエメクとはかけ離れた、おおよそ人間の男って事くらいしか共通点なんてありえない はっきり言ってしまえばぶっちゃけ悪趣味の極みなんだからエメクと何かがどうにかなる訳ないじゃない。 だけど、世の中には結局憧れの人とは結ばれずに優しい幼馴染と結ばれる物語って多くて…… ないわよね。だってエメクがこんな子供をそういう目で見てるなんて事ない、わよね。ない。ない。ありえない。 無意識のうちに前足で床をたしたし叩いていたらしい。 「すみません、放ったらかしにしてしまって」 「あ!それじゃわたしそろそろ帰るね。お茶ごちそうさまでした」 エンダと一緒に食器の片づけを手伝うフィーを見てるとただ普通の事をしてるだけなのに胸がざらざらする。 ただ普通に幼馴染としてお茶を飲んで、普通に片づけを手伝ってるだけのただの近所の子供なのに。頭ではよく分かってるのに。 なんだかせっかく犬なんだから、とよくわからない考えが頭に浮かんできて、近づいてきたエメクの手をぺろぺろとなめた。 甘いクリームの味がする。……あぁもう私ったらなんて事を。 「くすぐったいですよ。よしよし」 「その子、エメクさんの事が大好きなんだね」 エメクの事が、好き。 何気ない言葉に一瞬周りの時間が止まったような感じがした。 今の私はただの犬。 別に特別な意味があるわけないってわかってるんだけど。 お兄さんと食べるおみやげに、とクッキーを包んでもらって持って帰るフィーと 手を振って見送るエメクとエンダを見ながら私の頭の中はぐるぐるしっぱなしだった。 アダさんにもテレージャにも対処の仕方がわからなくて 結局その日は礼拝堂の椅子の下でエメクの仕事ぶりを見ることになった。 当たり前だけどエメクは誰にでも優しい。信徒の心のケアも神官の大事な仕事らしく熱心に話を聞いている。 そういう真剣な顔とか、いかにも優しそうな笑顔とか、ときどき眼鏡取り出して真剣に書物に向かったりとか。 あぁ、もう!弱いのよそういうの。 その日の晩、エメクの部屋に連れてこられた。 余計なものはなにもない部屋は綺麗に片付いてて、机の上に重ねられた書物もきちんと整えられている。 エメクが書いた字はすごく丁寧で、こんなところにも生真面目さが現れてる。 「礼拝堂は夜は冷えますから。こんな所ですけど今夜はここで休んでください」 抱き抱えられて部屋に来て。言葉だけならロマンチックなのに。「くうん」としか言えないのがもどかしい。 「……かわいいなぁ」 膝の上の私を撫でながらエメクが呟いた。今までこんな表情見たことない。 「あなたは本当に綺麗ですね」 あぁ、落ち着いて。エメクは犬に言ってるのよ。犬の毛並みの話なのよ。 顔が近すぎて落ち着かないとかそういうことじゃなくて。もう、そんなに近くで目をじっと見ないで。 「……おかしな話ですけどね、私の想っている人を思い出します」 え、ちょっと? 「あなたをここに連れてきた女の子がいたでしょう?あの子は私の幼馴染なんですが」 ……う、嘘よね?まさかね? 目の前が一瞬暗くなりかけたけど、エメクの言葉には続きがあった。 「あの子と私は同じ悩みを持っているんですよ」 本当は、懺悔を人に話すのはいけないことなんですが。 そう言ってエメクは静かに話し始めた。 「女神様。わたしは罪深い事を考えています」 幼馴染の少女は話しはじめた。 自分が探索者の男に淡い恋心を抱いていること。 彼は異変が収まれば去ってしまう。いずれ必ず来るその別れの日を恐れていること。 「早く平和な日々に戻ってきて欲しい、もう誰にも苦しんで欲しくない。そう考えているのに……」 告解室の机の上にぽたぽたと大粒の涙が落ちる。 「このまま、ずっとこのまま探索の日々が続いてくれたら。あの人がここにずっといてくれたら。 そんな自分勝手なことを考えるようになってしまって……自分の罪深さが見苦しくて、おぞましくて、自分で自分が怖くなって……」 「彼女の言葉を聞きながら、私も酷い衝撃を受けていました」 自分も同じように異国から来た探索者の女性に心を惹かれている。同じように、彼女が去ってしまうことを恐れている。 心から異変の終息を望んでいるのに、ただ一人が去ることが怖くて異変を望んでしまいそうになる。 神官としての言葉を発しているのに、喉が固まったような気がした。 「それから、私はあの子の悩みを聞くようになったんです」 彼女からの相談を受けている間、まるで自分の悩みを聞いてもらっているような気持ちになった。 「私の心にいるその人は、綺麗な黒髪のとても美しい人なんです。翠色の瞳にすっかり心を奪われてしまって…… 恥ずかしい話ですよね。神に仕える身なのに恋に焦がれて悩んでいるだなんて。 人々が苦難に耐えているこんな時に、こんな身勝手な事で苦しんでいるだなんて」 ……えっと、それ、つまりその、そういう、こと、よね……? 「すみません。変な話をしてしまいましたね。 あの子の話を聞いている間は聞いてもらっている気持ちになっていましたが それでも、誰かに聞いてもらいたかったのかもしれませんね」 こんな時には「わん」としか言えないのはありがたいかもしれない。間が保たないってことがないから。 この姿なら動揺した顔を見られずに済むから。 今の私なら、関わっても何にも巻き込まないで済むかもしれない。 くんくんと鳴きながら体をすり寄せる。後ろ足で立ち上がって頬をなめる。 私だってあなたが好きなの。エメク。 「ありがとう。貴方は優しいですね」 ただ慰めているだけの一匹の犬としか思われないことに安心しながら少しだけ切なくなった。 「さぁ、そろそろ休みましょう。明日になればあなたの災難を祓う手掛かりが掴めるかもしれません」 寝ましょうと言われても、エメクの部屋で、しかもそんな話を聞かされた後で眠れるわけがない。 と、思ったけど横になって目を閉じるとだんだん眠気に包まれてきた。考えてみれば今日は疲れることがいっぱいで…… 「う……ん……」 夜中になんとなく肌寒くなって目が覚めた。 見慣れない光景が目の前にあって……そういえばここはエメクの部屋だったわね。 世界の大きさが元に戻ってる。と、言うことは。 恐る恐る自分の手を見ると、人間の姿に戻っていた。 良かった……けど、良くない。私、何も着てない。 「……どうかしましたか?」 どうしよう!エメクが目を覚ましてしまった。 裸でこんな所にいて、私これじゃまるで変質者じゃない! 「……キレハ、さん……?」 エメクは寝ぼけていて夢だと思ってるみたい。って、ちょっと。 「……貴方をお慕いしています……」 夢だと思っているから容赦なく抱きつかれた。エメクには力が入ってないし私も体勢が整ってないから お互いにもつれて倒れた結果寝台に押し倒されるような格好になる。 「神に仕える身でありながら、私は貴方に焦がれてなりません……」 嫌じゃないけどいくらなんでもまだ早すぎるわよ! そうじゃなくてもう、落ち着かなきゃ、深呼吸して……エメクの匂いがして余計落ち着かなくなってきたじゃない! とにかく、エメクが目を覚ます前になんとかここから出ないと…… 「エメク。夢の中ででもあなたに会えて嬉しいわ」 「キレハさん……私もです……」 これはエメクの夢なんだから。そう、落ち着いて。動揺しちゃ駄目よ。無理だけど! 「少し肌寒いの。何か着るものはないかしら?」 「……これを……」 エメクの上着。ぶかぶかだしエメクの匂いがして落ち着かないけどこれを着ないとしょうがない。丈が長いのはありがたいけど。 「ありがとう。……エメク、好きよ」 これはエメクの夢なんだから、という演出のために頬にキスをする。ああもうそんなに嬉しそうな顔しないで。 「……キレハさん……」 寝顔まで綺麗すぎてずるいのよ。 あー。緊張した…… 大急ぎで部屋に戻ると裸足で走った足を洗って、応急手当をかけて着替えた。 まだ心臓がおかしい。胸が切なくて苦しい。間近で見たエメクのいろんな顔が頭に浮かんで胸が痛くなる。 私、私、私、なんて事を! 今日一日の自分の行動と起こった出来事を思い起こすと恥ずかしくてたまらない気持ちになって 枕を抱えながら寝台の上でごろごろ転がる。 犬の姿だからあんな事したけど、よく考えてみればあんな事! 何度も抱きかかえられて、膝の上に乗せられて、私の方もすり付いたり、ましてやなめたりなんかして。 しかも……裸、で…… こんな時間だから大きな声は出せないけど、叫び出したいような気持ち。 枕に顔を埋めて声にならない声を出すしかない。 視界の端にエメクの上着が入る。 これも、明日どうやって返そう…… とにかくこんな夜中に返しに行くわけにもいかないし、いろいろ考えてもどうしようもないし、 今はとにかく寝よう。それ以外どうしようもないし。 寝台に潜り込みながらふと思いついて上掛けの上に上着をかぶせた。 エメクの匂いがして、目を閉じると一緒にいるような気がした。 翌朝。目が覚めるとちゃんと人間の姿だった。 昨日の上着は上掛けの上にある。 どうにかして返す方法を考えないと。とにかく綺麗にしわを伸ばして畳む。 いい方法というのは意外なところにあった。 「あ、おはよう、キレハさん。あ、あの、黒い毛並みで、このくらいの、耳はぴんとしたいぬちゃん知らない……かな?」 そう、犬の私の第一発見者が声をかけてきた。 「その子だったらこの町に来ていた貿易商の飼い犬だったそうよ。発掘品関係で呪いにかかったらしいんだけど、 今朝無事に戻ってきたって」 「そうだったんだ。良かったぁ……昨日神殿で預かったんだけど、朝になったらいなくなってたって聞いて。心配してたの」 我ながらよくこんな作り話がすらすらと。 ちょっと自分で自分に苦笑したんだけど、フィーはあっさりと信じて納得している。 そんなのだからまんまとあんなのにあっさり引っかかって……って、それこそ余計なお世話よね。 「ちょっと待ってて」 嘘をつく事に良心がきりきり痛む。けど、他に方法が思いつかない。 「これ、前にエメクに借りたんだけど。神殿に行くならついでに返してきて欲しいのよ」 一応、嘘は言ってないわよね……ほんと昨日とは別の意味で胸が痛い。 「これ、アップルパイ。よかったらお兄さんと食べてね」 せめてものお詫びというか、賄賂みたいでやっぱり良心が痛むというか…… 「ありがとう!わたし、アップルパイ大好き!」 そこまで喜ばれるといろいろ複雑だわ。 「キレハさん、お料理すごく上手だし……あ、あの、よかったら、今度作り方、教えて欲しいな……」 「ええ、もちろんよ」 フィーは嬉しそうに頷いて神殿までの道を駆けて行った。 これなら、埋め合わせになる……わよね? とは言っても上着を返すという物理的問題のみが解決しただけで、 エメクと顔を合わせたときの気まずさはただ先延ばしになっただけだった。 「……おはようございます」 「おはよう……」 どうしよう。赤くなって目を逸らされるとすごく気まずい。 「あ、上着、ありがとう……」 「いえ、役に立ったなら何よりです」 と、言いながらも微妙な顔をしている。当然よね、貸した記憶がない上着がなぜか返ってきたんだから。 「……あの夢は……もしかして……」 「夢?」 なんのことかわかってるけど白々しく聞いてみる。 「いえ、ね。昨日夢の中でキレハさんに上着を貸す夢を見たんです。 夢で貸した上着が戻ってくるなんて不思議な事があるなぁ、と」 苦笑しているエメク。いろんな意味で胸が痛い。 「不思議な出来事がいろいろあるのね」 「そう、ですね」 そういえばエメクは変な悪夢を見たって言ってたわよね…… どうしよう。無神経な事を言ってしまったのかしら。 「ごめ……」 「あの夢は……嬉しい夢でしたね」 謝りかけたところで笑顔で言われて、また沈黙。 「そうだったの?そ、そういう楽しい不思議なことだけ起こればいいのにね」 ……支離滅裂だわ。もうどうにでもなーれ、なんて言いたい気分。 「……本当に、そう思います」 エメクは噛みしめるようにそう言って、一瞬だけだけどすごく真剣な目で私のほうを見た。 「では、私は探索に向かいます。キレハさん、貴方にとっては異国の祈りですが……神の祝福のあらんことを」 エメクはもともと「神官の務めに障らなければ」という条件での探索許可らしい。 数日に一度は神殿にいなければいけない、昨日がたまたまその日に当たったのは運が……いえ、運が良かったのね。 結局、私の中の混沌の力が遺跡の力に触発されて小規模な暴走を起こしたのが昨日の顛末だったらしい。 神殿という力の安定した場所に長時間いたことが良かったんだとか。 念のため、大事を取って今日は一日様子を見ることにした。 さっきのエメクの真剣な顔が頭に残っている。 あの夢が嬉しいって、私に上着を貸す夢がそんなに楽しいのかしら? ……あ。 『エメク。夢の中ででもあなたに会えて嬉しいわ』 『ありがとう。……エメク、好きよ』 私は昨日の自分の言葉を思い出して、それがエメクにとってどんな夢だったのか気が付いて 寝台に埋まりながら盛大に自爆するしかなかった。